ニュース News

車いすテニス界のレジェンド、国枝慎吾が引退会見「感動を与えられる、スポーツとして見られたい」

引退会見で笑顔を見せる国枝

グランドスラムで通算50回の優勝、年末王者10回など、車いすテニス界の歴史に残る数々の偉業を達成して先月現役引退を表明した38歳の国枝慎吾(日本/ユニクロ)が引退会見を開き、ファンへの感謝やプレーを続けてきた中でのこだわり、妻のサポートなどについて語った。

国枝はまず以下のように引退の挨拶を述べ、その後、質疑応答に臨んだ。

「東京パラリンピック」が終わってから、引退についてはずっと僕自身も考えておりました。昨年はグランドスラムのシングルスのタイトルを4つのうちの3つ獲得して、調子も良かったんですけど、最後の最後に残された「ウィンブルドン」のタイトルで優勝が決まった後に、チームのみんなと抱き合ったんです。その時に「あ、これで引退だな」っていうのが、実は芝のコート上で一番最初に出た言葉でした。

その後に、「全米オープン」では年間グランドスラムもかかっていたので、モチベーションではいけたんですが、 やっぱり全米が終わってから、僕自身も「もう十分やりきったな」というのが、ふとした瞬間に口癖のように出てしまった。そのままテニスをしていていいのかなというような気持ちに、「全米オープン」の後はなってしまっていた。これはそういうタイミングなのかなというところで、決意をしました。

プロに転向してから本当に長い間、所属スポンサーであるユニクロ をはじめ、その多くのスポンサーの方々にも同席していただいています。本当にありがとうございました。 また日頃から一番身近で支えてくれている妻、テニスをするきっかけを与えてくれた母は天国で見守ってくれているし、 今まで関わってくれたコーチ、トレーナー、マネージャー 、車いすテニスの先輩方、関係者の皆様、本当に僕自身を支えてくださって、本当にありがとうございました。最後になりましたが、 応援してくださっているファンの皆様には、最高のテニス人生を送れたという風に言い切って、挨拶とさせていただきたいと思います。本日はありがとうございました。

Q: 競技人生を振り返って、一番の思い出はなんでしょうか。

国枝: 一番の思い出は、東京でのパラリンピックの金メダルですね。パラリンピックはアテネから北京、ロンドン、リオ、そして東京と出ていましたけれども、それぞれが僕の中で転機になっていました。アテネの時は、最初は引退しようと思って臨みましたが、金メダルを取ったことで、テニス選手として活動していくことを決めました。

2008年の北京では、それをきっかけにプロ転向して、2012年はそのプロ選手としての証明を掲げてやって、16年は挫折を味わい、2021年の東京で金メダル。そういう意味では全てのパラリンピックに思い出がありますけれども、東京で、2013年からのあの8年越しの夢が叶った瞬間というのは、今でも鮮明に、その写真を見ると震えるような感情になります。それぐらい思いの詰まった金メダルだったと思いますので、 東京のパラリンピックというのは、やっぱり一番の集大成になりました。

Q: 今後の活動について、どのようなことを思い描いていらっしゃるのか教えてください。

国枝: 引退発表から大体2週間くらいたって、自分の中では何をしていきたいのかなっていうのがぼんやりと出てきたぐらいで、そこはまだ心の中に秘めておきたいなと思います。ある意味、車いすテニスを社会的に認めさせたいとか、スポーツとしていかに見せるかというところにこだわってきたところがあって。元々、車いすテニスの管轄は国際テニス連盟で、本当にそういう意味では、垣根がない、健常者と障害者のスポーツだったなと今でも思いますし、それをテニスをしてる中で、皆さんに知ってもらいたいというのが強くあったので、結構そこの活動というのは、 実際この後も続いていくのかなと思っています。

Q: 国枝さんといえば「俺は最強だ」という言葉とともに、昨日の自分より今日の自分の方が強いという言葉を長年聞いてきました。2006年に世界のトップになってから長年トップにいらっしゃいましたが、ここに至るまで、車いすテニスのレベルというのはどんなふうに上がっていったのか、語っていただけますか。

国枝: どのスポーツにも言えることかなと思いますけど、年々スポーツのレベルは上がっていきます。僕自身も、今現在の自分の状態でプロに転向した2009年の自分と戦っても、間違いなく勝てるだろうなと思えるくらい、車いすテニスのレベルというのは年々上がってきています。今でも成長中だと思っています。

「俺は最強だ」と言って、世界1位を2006年から続けてきて、何が難しかったかなって思うと、 2位とか3位の時というのは1位の人の背中を見て、その1位の選手に勝つために、自分自身どうしていけばいいのかって組み立てていくわけなんですけど、1位になった瞬間に、誰の背中も見えなくなってしまう。でもスポーツのレベルというのは上がっていくわけで、自分自身が現状維持のままだと相対的には衰退している状態になってしまうので、1位の状態でも、なおかつ自分の中で課題を見つけて、いかに成長していくかというところが難しさでもあり、面白さでもありました。そういう意味では、こうして2006年から今年の2023年まで長いこと1位を続けられた理由は、やっぱり現状に満足せずに、常に自分の中の課題を作り続けるという難しさにチャレンジしてきたことが、一つ要因としては挙げられるかなと思います。

Q: 日本の車いすテニス界は、国枝慎吾がいなくなった後はどうなっていくのか、どうなってほしいのか。それにどうやって国枝さんは関わっていきたいのか、教えてください。

国枝: 先日の「全豪オープン」でもドローの数が8名から16名まで選手を拡大して受け入れているので、その結果、日本人の選手も世界中でも一番多い人数が戦えるようになってきています。その筆頭でもあります上地結衣(三井住友銀行)選手だとか、今急成長中の小田凱人(東海理化)選手やほかの選手も含めて、相当日本の車いす選手のレベルは高いと思います。その選手たちがこれからどうやってこのスポーツを発展させていくかというのは、もちろん僕自身も楽しみなところもあります。日本では2019年からATPの「楽天ジャパンオープン」で車いすの部を創設していただいて、昨年は本当に満員のお客さんの前でプレーできたというところも、僕の中では車いすテニスというスポーツを、本当にスポーツとして受け入れられた瞬間でもあったなと感じたところもありました。そのスポーツとしてという舞台にようやく上がってきたというところで、僕はもう40歳手前になっちゃったので、それを託せる人たちがもうすでに日本にはいますし、そういった方たちのサポートもしていきたいし、そういった大会に自分自身も関わっていきたいというのももちろんあります。

じゃあどうやってこれから世界の車いすテニスが発展していくべきかというところに関しても、ずっと思っていたのは、この「ジャパンオープン」の一ついい例があります。すごくいい例だなと思っていて、ATPやWTA、健常者のプロの大会にどんどんこうやって、車いすの部を作っていただいて、そこでプレーする環境って一番手っ取り早いというか、車いす選手のプロモーションにもすごくいいかなと思うので、そういった大会を世界各地で作っていくことも、もしかしたら僕が何か手伝えることかなと思っているので、そういったことも含めて関わっていけたらいいなと思います。

Q: 以前に国枝選手は、車いすの子供たちにも車いすテニスプレーヤーになりたいという夢を持ってもらえるんじゃないかとお話していらっしゃいました。

国枝: 今も上地選手や小田選手がプロ転向して活躍してるっていうところに、自分自身のその時の言葉が本当に実現したなと思える瞬間でもあって、もしかしたらプロ転向をした時に思ってた以上に、そういった足跡というのはくっきりと残せたのかなと思います。それらの選手以外にも若い車いすの選手がすごく増えてきて、日本ではそういった選手がどんどん海外に今チャレンジしてるので、自分がやってきたことが少し彼らに影響を与えることができたのかなと思うと、やってきた意味があったなとも思える瞬間ですね。

Q: 多くの子供たちが国枝選手の活躍によって夢を抱いたと思うんですが、その国枝選手の活躍を支えていらっしゃったお一人が奥様だと思います。以前、奥様の愛さんがいなければここまでやってこれていなかったとお話していらっしゃいました。改めて、奥様の存在、サポートへの思いを聞かせてください。

国枝: 本当に一番はやっぱりリオの2016年の時、 相当僕自身も追い込まれていた時に、妻の存在はすごく大きくて、メディアの前ではどうしても強気な発言だとか、金メダル取りますというのを言わなきゃいけない。自分自身が傷を負っていても、そこで弱音を言ってしまうとプレーにも出てしまうなというのもあったので言えなくて。それを言えるのが家に帰って、妻にもう無理だ、もう試合に間に合わない、できないな、引退かなとか、そういった言葉を吐き出せる場所があるっていうところは、きっと僕の競技にはすごく助けになったと思いますし、2016年か17年からは一緒に大会も対応してくれて。テニスって1年間世界各地を回って、割と孤独なんですよね。一人で全てをやってっていう中、妻がいるだけで、ホテルに帰れば家のようなアットホームな雰囲気が流れるっていうだけでも十分、オンとオフがはっきり切り替えができるというところは、すごく助けになったと思います。

Q: 2点お伺いしたいんですが、まず1点目は先日政府の方で、国民栄誉賞ニュースがありましたが、車いす選手でスポーツを通じてその領域までチャレンジを示したということに対し、どう思ってらっしゃるか。 もう1点は、現役でやり残したこととか、少し心残りだったことがあったら教えてください。

国枝: まず国民栄誉賞の話ですけど、私の方にも先週の金曜日に連絡があって検討しているという話だったので、それを受けた時には、車いすテニスは本当に評価されたと、自分自身がやってきたことが最大限に評価されたということでは、大変光栄に感じました。

やり残したことは、成績だとかタイトルだとかというのは、本当にもうやり残したことがないですね。昨年の「ウィンブルドン」を取って、本当にやりきったなと自分自身も 思える現役生活を送れたことは最高の幸せだと思います。

Q: 国枝選手の素晴らしい成績の裏で苦しい局面とかも様々経験されてこられたと思うんですが、その時にどうやって乗り越えてこられたかというのを、特に言葉の力、「俺は最強だ」といった言葉の力を大切にされていらっしゃるかと思うのですが、何か自分を奮い立たせる言葉などありましたら教えていただけますか。

国枝: 2016年も、王者の看板が若手の選手に渡ってしまった時でも「俺は最強だ」という言葉をラケットから外そうかなってあの当時悩みました。でも外さなかった、最後まで。それを外した瞬間にもう戻ってこないっていう風に自分自身も感じたので、それは最後まで外すことはなかったです。2006年から23年まで、ラケットに俺は最強だっていう言葉を書き続けて、何度も何度も弱気になる部分はテニスをやっていたらありますし、そういった中でも俺は最強だって自分自身断言する。そういったことで、いろんなそういった弱気の虫を外に飛ばしていけたかなって思います。それは最初から、あの2006年から最後までやりきれたかなって思うことの一つです。

Q: (引退に関して)小田選手とのやり取りを教えてください。

国枝: 全豪でダブルスを組む予定だったので、約束を破ってしまったところはすごく申し訳ない気持ちでした。 ちょうど彼が多分、オーストラリアに発つ日だったんじゃないかな。1月の4日に電話で話して、自分自身はもう昨年の「ウィンブルドン」で、あの時「ウィンブルドン」優勝して、そのままロッカールームで話したんです。もう終わったわ、これでっていうのは実は言ってあって、その話を今年もその電話の時に、あの時言ったけど、もうこれ以上、自分自身がテニス競技でやることはないかなっていうことを伝えて、引っ張っていってくれということを伝えましたね。

Q: 「俺は最強だ」という言葉は子供たちにも広く伝わって、そうとはいえ、 国枝選手も俺は最強だってなるまでには、自信をつける様々な努力をされたと思います。改めて子供たちに、自信をつけるヒントのようなことと、何か子供たちにメッセージをいただけたらありがたいです。

国枝: もちろん僕自身も「俺は最強だ」っていうメンタルトレーニングは 1位になる前から続けてはいたんですけど、じゃあそれだけやっていれば1位になれるのならみんな1位になっちゃうので、やっぱりその裏には積み重ねというものがある。1日同じような練習をずっと繰り返し、反復でやったりだとか。ただ「俺は最強だ」と自分自身に言いながらの練習というのは、その練習の質を上げることに繋がったかなと思います。なので、本当にそうやって自分自身断言するトレーニングというのは、僕自身もすごく効果はありましたけど、その裏にはやっぱりそういった積み重ねがあるということを伝えられたらと思います。

Q: 国枝選手が競技生活を続ける中で一番苦労されたことと、それをどう克服したのかということ。そして今の自分にどういう声をかけたいですか。

国枝: アテネのパラリンピックの時はまだ、僕が金メダルを取ってもスポーツ欄になかなか載らない時期というのはありまして、それをどうにかスポーツとして扱ってもらいたい。よく、車いすでテニスやって偉いねっていう風に言われたこともあったんですけど、車いすでテニスやってて偉いじゃなくて、目が悪ければ眼鏡をかける、僕は足が悪いから車いすでスポーツするしかない。スポーツがしたいというのも、皆さん思うわけじゃないですか。結局そんなに特別なことではないというのはずっと思っていて。

アテネの頃はまだまだスポーツとして扱われない。本当に福祉として、何かこう社会的な意義があるものとしてっていうところがすごく強くメディアを通して伝わっていたのかなと思っていて、これを変えないと。自分がやっていること、車いすテニスを通して、車いすテニスってこんなに面白い。本当に予想以上にエキサイトするスポーツ、そういった舞台に持っていかないと、パラリンピックも共生社会の実現のために、みたいなことを言われますけど、結局スポーツとして、感動を与えられたりとか、興奮させるものでないと、やっぱりそこにも結局は繋がっていかないんじゃないかなと思っていたので、まずはスポーツとしてというところのこだわりというものは、相当強く持ちながらプレーはしていました。そういう意味では、相手との戦いと自分との戦い、そしてこのスポーツとして見られたいという戦い、この3つがずっと現役中は心にのしかかってやってたなと思います。

「東京パラリンピック」でようやく、それまで国枝、車いすテニス世界一だとかは知られていたと思うんですけど、どういうプレーをするかってことは、実際に皆さんご存じなかったんじゃないかなって思っていて。東京(パラリンピック)が終わった後の反響というのは、ものすごく僕の中ではスポーツとしてというところの手応えがあった出来事だったかなと思います。

昨年グランドスラムで3勝したりだとか、調子良かったなって思うと、今までスポーツとして皆さんの目を変えたいとか、そういったところにプレッシャーを感じてたのが、1年間全く感じてなかったんですね。 1回もそういった気負いを感じることなくプレーできて、本当にようやく純粋にテニスができて、相手と向き合えるようになったのかなって。自分の中でもそういう戦いをしてたら、もう現役も最後の時期に到来したんだなっていう風な思いがあるので。だからこれからも、上地選手や小田選手だとか、そういった若い選手には本当に純粋にスポーツとしてのフィールドが、土台ができたのかな、と思うと、そういった環境を用意できて良かったかなって思うところですね。もう一個なんでしたか?

Q: ご自分に掛ける言葉です。

国枝: 11歳の頃、僕自身もパラリンピックを知らなかったと思うんですよ。なんで車いすテニスを始めたかというと、元々スラムダンクが流行ってて、バスケットブームで、僕自身もバスケをやりたかったけど 近くにバスケのチームがなくて。母の趣味がテニスだったので、母にテニスコートにちょっと無理やり連れられて行ったところが始まりだったんですけど。そこで初めて車いすテニスというものを知って、やってみて。現代ではそういったスポーツがある、国枝 がいるだとか、そういう情報が溢れてるわけで、全く時代は変わりましたよ。 皆さんがパラリンピックって知ってますし、車いすテニスを知ってる。僕自身が車いすテニスを始めて28年になりますが、その28年で本当にいいことかなと思うところです。

(WOWOWテニスワールド編集部)

※写真は引退会見で笑顔を見せる国枝
(Photo by WOWOWテニスワールド)

WOWOWテニスワールド編集部

WOWOWテニスワールド編集部

facebook twitter

速報や最新ニュース、グランドスラム、ATP、WTAなどの大会日程と試合結果情報など、テニスのすべてをお届けします!

WOWOWテニスワールド

  1. Home
  2. ニュース
  3. 車いすテニス界のレジェンド、国枝慎吾が引退会見「感動を与えられる、スポーツとして見られたい」