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錦織圭の恩師、10人の世界1位選手を育て上げたボロテリー氏がテニス界に与えた影響

※写真は2015年、メディアからの質疑応答に応えるボロテリー氏

若くからテニスの才能で注目されたニューヨーク州出身のジミー・アリアス(アメリカ)は、1978年にコロニー・ビーチ・アンド・テニス・リゾート所属の早口なコーチにフロリダに引っ越すよう説得された時、まだ13歳だった。

「学校はお昼で終わって、僕は午後じゅうテニスボールを打って過ごすことができた。もう一つの選択肢は僕一人でスぺインに引っ越すというものだった。そしてスペインテニス連盟と一緒に取り組む。連盟は煙草を吸う年配の男たちの組織で、彼らは英語も話さなかった。ビーチかスペインか?13歳の子どもにとっては悩むようなことじゃなかったよ」と元世界ランキング5位のアリアスは語った。

アリアスを説得したエネルギーに満ちたコーチとは、ニック・ボロテリー氏であった。ボロテリー氏自身は高校以降でテニスの公式戦に出場したことは一度もない。アリアスは、後にボロテリー・テニスアカデミーとなる組織に参加した最初の地元以外の有名人材だった。当時、組織には他に3人のジュニア選手がいただけで、施設面ではフロリダのロングボートに2面のコート、そしてボロテリー氏の家に部屋が一部屋あるだけだった。後にアンドレ・アガシ(アメリカ)とジム・クーリエ(アメリカ)がやってきて、この組織は卓越したレベルのジュニア選手にテニスを教えるモデルとなるのだ。ATP(男子プロテニス協会)公式オンラインメディアが、ボロテリー氏の功績を紹介している。

ボロテリー氏は先日、彼が創設した場所から自転車で少し移動すればたどり着くフロリダ州のブレイデントンで、家族と愛する人々に囲まれながらこの世を去った。91歳であった。この伝説的なコーチの長く曲がりくねった旅路にあった全てのものは、人生よりも大きかった。彼はこの上なく多くのものを生み出した。

1991年に、ボリス・ベッカー(ドイツ)が彼の生徒の中で初めて世界ランキング1位に登り詰めた。その後の年月の間に、モニカ・セレス(アメリカ)、クーリエ、マルチナ・ヒンギス(スイス)、マルセロ・リオス(チリ)、エレナ・ヤンコビッチ(セルビア)がベッカーに続いた。セレナ・ウイリアムズ(アメリカ)とビーナス・ウイリアムズ(アメリカ)の2人もボロテリー氏の指導を受けたことがあったほか、9歳の時にシベリアから彼のアカデミーにやって来たマリア・シャラポワ(ロシア)も同じであった。

全て合わせると、彼の抗いがたい周回軌道に入った10人の選手が世界1位となった。これは前例のない驚くべき偉業である。ラファエル・ナダル・アカデミーや各国の訓練センターが選り抜きの精鋭選手たちを集めるようになるずっと前に、ボロテリー氏はブレイデントンで類まれな指導と学びの環境を取り仕切っていたのだ。

クーリエは1984年にこの組織に参加する奨学金を受諾した当時、14歳であった。「15歳とか16歳で、アンドレ・アガシやヤニック・ノア(フランス)、ヨハン・クリーク(南アフリカ)たちと一緒にそこにいるんだ。ジュニアだけれど、プロとして練習をしているんだよ」とかつてクーリエは語っている。

「トーマス・フリードマンの本、“フラット化する世界(The World is Flat)”みたいだよ。ニックはまるでダーウィンみたいにテニスの世界をフラットにした。世界最高のジュニア選手たちのエコシステムを築き上げ、同時にプロも何人か混ぜた。彼は産業を生み出した。すごいよね、才能ある選手が自分のところにやって来るんだ、その反対じゃなくてね」

競争は煮えくり返る大釜のように激しかった。クーリエやアガシ、アリアス、そしてアーロン・クリックステイン(アメリカ)のような未来の超有名テニス選手たちが集まっていたのだ。1980年代に彼からが高校生だった時である。クーリエは後にグランドスラムのシングルスで4度、アガシは8度の優勝を果たしている。

1987年にIMGに買収されたニック・ボロテリー・テニスアカデミーは、今も彼の名の下に営業している。2014年、長年の疎外の末にボロテリー氏はようやくロードアイランドのニューポートにある国際テニス殿堂に招き入れられた。

テニスジャーナリストのピーター・ボド氏は、ボロテリー氏のもたらした究極的な影響の本質を語った。「彼は部外者としてテニス界に入ってきた。新しいプロ時代の到来に伴って、混み合ったスタジアムやテレビ放送、ブランドの靴など色んなものが一緒にやってきた。彼はこの頃にほとんど一夜にしてテニスに魅せられた数多のアメリカ人の一人だった」

「彼の遺産は他に類を見ない。ボロテリー氏の名を冠したアカデミーは、多数の才能ある少年少女たちに高水準な没入型の訓練を提供した。生徒たちは専門的で包括的な訓練の恩恵を受けただけでなく、お互いに高め合い挑戦し合って、日々成長していった」

四大大会で2つのタイトルを獲得したメアリー・ピアス(フランス)は、ボロテリー氏の偉業をこう説明する。「彼には本当に素晴らしい才能があった。選手たちはみんなすごく違っていて、全員を同じように訓練することはできない。そのことが、彼をこれほどに素晴らしいコーチたらしめている。彼は生徒から最高のものを引き出す方法を知っていた」

ボロテリー氏はニューヨークのペラムで1931年に生まれた。アメリカテニス連盟(USTA)の広大な「全米オープン」会場からほど近い場所だ。彼がテニス界で試合に出ていた最後の時期にあたる高校では、肝の据わった選手であった。アラバマのモービルにあるスプリングヒル・カレッジで哲学の学位を取得して卒業した後、軍に勤めた。

最終的にテニスが彼を誘惑して学術界から去らせるまで、ボロテリー氏はマイアミ大学のロースクールに通っていた。1950年代半ばにコーチ業を始め、北マイアミのビクトリーパーク・コートで1時間3ドルで指導を行った。

大きな転機となったのは、プエルトリコのドラド・ビーチホテルのテニス責任者となったことだ。1978年にニック・ボロテリー・テニスアカデミーを創設。技巧の面では時代を随分と先取りしていた。ボロテリー氏は、ベースラインの内側に入って早いタイミングでボールを捉え、インサイド・アウトにフォアハンドを打つという攻撃的な試合を提唱したのだ。

彼の成功の秘訣はコミュニケーションだと、ボロテリー氏はこの年に語っている。「私に与えられた才能は、とてもシンプルな形で人々と共感できる能力だと思っている。私はUSTAの理事で、そこにはあらゆる類のコーチがいるが、彼らは動態変化やバイオメカニクスみたいなことについて話す。実のところ、私にはわからない。そういう表現はどれもよくわからないが、私にわかるのは、本人たちのあり方に沿う形で人々に共感できるということだ。それが、私が持っている最大の能力だ」

アリアス以上にボロテリー氏の遺産を継承することに献身している人物はいない。初めてフロリダに着いてから40年を経て、アリアスはテニス責任者としてIMGアカデミーに戻ってきた。アリアスはここで約230人の学生選手を監督している。多くの親たちが知っているように、今では物事は違っている。

「両親は僕らを送り出した。守ってくれるものはなかった。今は、昔とは違う。僕らにとっては、まあいいことだったと思う。すごく若い時から大人になって、自分を擁護してくれる人は誰もいなかった。自分で自分を擁護しなければならなかった」

ボロテリー氏のように、アリアスは基本に焦点を当てている。「技術は大切だが、ある時点で考えなければいけない。“今日対戦する相手をどうやったら負かせるか?”と。そのための唯一の方法は、たくさんプレーすること。多くの違ったタイプの選手たちとプレーして、そしてたくさん勝つことだ。基本的に、私は何年も前にニックが使っていたやり方を復活させている。全てのレベルで自分を試すのに最適な場所。それが、彼がテニスにもたらしたものなんだ」

(WOWOWテニスワールド編集部)

※写真は2015年、メディアからの質疑応答に応えるボロテリー氏
(Photo by Matthew Stockman/Getty Images)

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