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9歳で「パラリンピックに出たい」と言ったフィンクが19歳で世界王者になるまで

2020年「全米オープン」の会場

10年前、当時9歳のニールス・フィンク(オランダ)は母と友人と共に2012年「ロンドンパラリンピック」を訪れ、自分自身に言った。「パラリンピックに出たい」

「東京パラリンピック」の閉幕から1年が経った今、19歳のフィンクは自分の夢を叶えただけでなく、パラリンピックでの金メダリストかつ銅メダリストであり、マスターズ覇者であり、クアードシングルス世界ランキング1位であり、「全米オープン」の第1シードでもあった。「全米オープン」前にフィンクが語った内容を、ITF(国際テニス連盟)公式オンラインメディアが伝えた。

「2012年の“ロンドンパラリンピック”を見に行ったのは、友達の父親が重量挙げでもう少しで出場できるところだったかったからなんだ。僕は母と友達と一緒に行ったんだけど、重量挙げと水泳のチケットを持っていた」

「パラリンピックほど大きなものを見たことがなかった。僕にとっては全く新しい世界で、僕は“パラリンピックに出たい”と言ったけど、どうすれば出られるかはわからなかった。その時は何のスポーツもしていなくて、車いすテニスのことも知らなかった」

オランダに帰って、パラリンピック選手になるという夢を叶える方法を少し調べた後で、フィンクはアムステルダムのオリンピックスタジアムで行われたスポーツの日のイベントに参加した。

「全てのパラリンピック競技が行われて、素晴らしい日だったよ。丸1日スポーツができるんだからね。シッティングバレーボール、車いすバスケットボール、車いすテニス、車いすホッケーなんかをやってみた。実際、パラリンピック競技を全部試してみて、どれも気に入った」

「でも、僕らが知らなかったのは、色々な競技のスカウトがそこに来ていたということ。アムステルダムから戻った次の日に、車いすバスケットボール連盟からメールが来て、プロのトレーニングセンターであるパペンダルに招待された。だからそこへ行って、オランダチームの代表選手たちと一緒に練習させてもらった。そして一緒にトレーニングしたいかと聞かれた」

だがフィンクの車いすバスケットボールとの関わりは短命に終わった。「10歳や11歳の子どもには激しすぎた。バスケットボールという競技は好きだけど、僕は車いすから落ちるのが嫌で、コート上の人みんなを避けていた。だから、1度練習に参加しただけで辞めた」

フィンクがスポーツの日に見せた潜在能力は、シッティングバレーボール界の関心も引いた。「僕は本当に本当にそれが気に入って何回か練習に参加した、同じようにパペンダルでね。でも僕は小さすぎてネットに届かなかったからスパイクもブロックもできなくて、バレーボールではそういうプレーが大事なんだ」

バスケットボールとバレーボールを少し体験した後、フィンクの車いすテニスのキャリアが始まった。

「家の近所にテニスクラブがあって、僕は障がい者向けのテニスに参加し始めた。最初は義足をつけてやった、車いすに座りたくなかったから。なんでかは聞かないで、自分でもわからないから。トレーニングのためにスポーツ用の車いすを買っていた。最後の最後になってようやくその車いすを試して、そこからは全てがすごく速く進んだ」

2012年のロンドン訪問では世界最高のパラリンピック水泳選手が泳いでいるのを見ることができたが、フィンクはオリンピック・パークの反対側で行われていたことについては何も知らなかった。そこでは、国枝慎吾(日本/ユニクロ)が男子車いすテニス選手として初めてパラリンピック連覇を果たし、歴史を作る真っ只中であったのだ。

「ロンドンパラリンピック」は、フィンクと同じオランダ人で2004年の「アテネパラリンピック」金メダリストであるロビン・アマラーン(オランダ)にとっても重要なものだった。これはアマラーンの輝かしいキャリアの最後の国際大会であったからだ。しかし、フィンクとアマラーンは出会う運命にあった。2人が出会ったのはフィンクの地元のテニスクラブで、これが当時12歳のフィンクの将来の方向性に重大な影響をもたらすこととなった。

「僕は楽しむためにクラブで練習していた。するとある日、ロビン・アマラーンのクリニックが開催された。その時は彼が誰なのか知らなかったけど、トレーナーが彼はパラリンピック選手だと教えてくれた。だからあれは本当にいかした経験だった。クリニックの後、彼は僕らを車いすテニス連盟に取り次いでくれると言った」

すぐに、オランダ車いすテニス連盟のコーチであるデニス・スポレル氏からフィンクに電話がかかってきた。スポレル氏は国立テニスセンターで少数のジュニア選手と一緒に練習するようフィンクを招待し、フィンクはそこで成功した。

「ジュニアで2年プレーして、僕の障がいならクアード部門でプレーできると言われた。そして、全部そこから始まった」

国立トレーニングセンターでジュニア選手たちと打ち合うようになってから6年が経つが、自分がどれほど遠くまで来たのかを振り返るとフィンクは驚くばかりだ。

「とんでもないよね。考えてみれば、10年前には車いすテニスが存在することも知らなかったのに、今は世界ランキング1位で、パラリンピックの金メダリストであり銅メダリストで、マスターズ覇者で…信じられないよ。夢が叶った」

「それまでに起こった色んなことのせいで東京はすごく妙な感じだったけど、全ての瞬間を楽しんだ。2012年に、どんなスポーツもしたことのない小さな子どもだった僕が、パラリンピックに出場したいと言った。9年後に、その少年が言ったことが現実になったんだ。信じられないよ」

昨年、東京でパラリンピックに初出場を果たした1週間後、フィンクは「全米オープン」でも記憶に残る初陣を経験した。同胞で前年度覇者でもあるサム・シュレーダー(オランダ)を1回戦で破ったのだ。2人は今年7月の「ウィンブルドン」でも初のオランダ人同士によるクアードシングルス決勝を戦い、この時はシュレーダーが勝利した。

「“ウィンブルドン”では自分の気持ちを制御できていなかった。だからその後は数週間休んで、テニスのことを考えないようにする必要があった。休暇でエジプトに行って、それからスペインに行った。でもその後は練習に戻って、ここ何週間かは訓練に打ち込んでいる。今はまた制御できている気がするし、気持ちの上では準備できている」

そう語っていたフィンクは「全米オープン」決勝で見事シュレーダーを下し、大会初優勝を飾ったのだった。

(WOWOWテニスワールド編集部)

※写真は2020年「全米オープン」の会場
 (Photo by Al Bello/Getty Images)

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